やまゆり事件で考えるべきこと
差別解消法が施行され、障がいの有無によって分け隔てられることなく、相互に尊重しあいながら共生する社会への実現…がされるはずだった。
障がいを理由にする差別の解消…がされるはずだった。
しかし、そんな時に起きた、この事件。
「障がいを持つ人たちは生きる価値がない」というのが、植松被告の犯行理由。
こう思ってしまったのは、植松被告が「生きる価値」を周りに求められてきた証拠である。
生きる価値のない命なんてないという考えができなかった植松被告。
生きる価値のない命なんてないと感じることのできない社会。
役に立つかどうかで、価値があるかないかを分断してしまう社会の優生思想が、人々の「自分は役に立つ人間かどうか」という不安を駆り立てている。
その不安の、究極に極端な形がこのやまゆり事件だと捉えている。
裁判で、被害者の名前は匿名だ。
匿名にさせてしまう社会なのだ。
たしかに、一人ひとり、名前のある「ひとりのかけがえのない人」だったのに、
その名前を隠し、「被害にあった障がい者」として、「くくられて」語られるのだ。
さて、ではわたしは…あなたは…
障がいや、差別や、分断や、優生思想…をどう考えて生きているか。
この事件を「ただの凶悪事件」として捉えるのではなく、
自分の考え方や、社会のあり方を振り返り、考え直さなくてはならない。
そして、差別解消法が施行されているこの国の司法が、どのようにこの事件と向き合うのか。
今後の日本の「共生する社会への実現」にどう繋がっていくのか、大きなきっかけになることは間違いない。